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 また間が開きました。それに、前回お約束したのは「地球規模の環境破壊」ですが、少し順序を変更して、本来は前々回の「我が国の環境破壊」の前にお話しすべきであった「我が国の環境」について述べさせて頂きます。まずはお詫びでした。

さて、私の専門は「農業土木学」という学問分野です。また、この農業土木学は「農業機械学」と合せて「農業工学」と呼ばれていました。
英語では、いわゆる土木工学を”Civil Engineering”というのに対して、農業工学は”Agricultural Engineering” といわれますが、これは農業、環境、天然資源等に対する技術・学問体系で、農業は主に畑作農業のことです。一方、我が国の農業工学は、水田・稲作農業を主たる対象として我が国で成立、発展した技術・学問体系とAgricultural Engineeringが合体した独特の分野で、これから機械関係を除いたものが農業土木学というわけです。
つまり、農業土木学は我が国の農業・農村に関わる独自のAgricultural Engineeringで、現在は「地域環境工学」と称することが多く、英語では”Rulal Engineering”と表わされることが多いようです。
これから述べるように、我が国の文化は「稲作文化」を基本としているものです。現在我々の周りにある自然環境はこの稲作文化の長い歴史によって形成され、維持されてきたものですから、この自然環境に関わってきた農業土木学が地域環境工学へと発展したのは当然のことといえるのです。

「生きる」とは「食べる」ことです。むしろ、「食べる」為に「生きて」いるというべきかもしれません。だからこそ「衣食足りて礼節を知る」わけです。「農業」とは、「食べる」ための食料を効率よくあるいは組織的に手に入れるための営為のことです。「農業」には定住することと知識や技術を持つことが必要であることは明らかであって、この理由で「農業・農耕」が文明あるいは文化のもととなったのです。このことは、例えば「文化・教養」を意味する英語の「カルチャー culture」に「耕作」の意味があり、その語源は、中世以来20世紀初頭まで教会や大学で使われてきたラテン語の「耕す」、「培う」、「耕地」という意味の「カルトゥーラcultura」という言葉であることからも分かります。
 繰り返すと、我が国の自然環境は稲作文化によって培われたものです。そこで、我が国の環境を理解するために、以下に稲作文化との関係を歴史的に概観してみようと思います。

我が国の歴史の初めは旧石器時代です。日本列島は過去何回かあった氷河期によって何度か大陸と陸続きになり、数十万年前から人々が大陸から歩いてやって来た可能性があると考えられています。しかしながら、日本の前期・中期の旧石器時代の遺跡は2000年11月の遺跡捏造発覚事件によって存在が疑問視され、したがって、残念ながら、確かな旧石器遺跡は現時点では3〜4万年前以降の後期旧石器時代のもの(群馬岩宿遺跡等)だけということになってしまいました。

続く縄文時代は我が国の新石器時代です。最終のヴルム氷期の最盛期(2万年前頃)には海面が現在より150m程低下していました。日本列島は大陸と地続きであり、気温は大陸内部より温暖で森林に覆われていたといわれます。以降気温は上昇し、1万年程前には氷期が終わって海面が上昇(縄文海進といいます)しました。6000〜7000年前には現在より気温は2℃、海面は数m高くなって日本海が出来、暖流(対馬海流)が流入して水と緑豊かな広葉樹で覆われた地域へと変貌したと考えられています。この結果、東日本ではブナを中心とする冷温帯落葉樹林に代わってコナラ、クリを中心とする暖温帯落葉樹林が広がり、西日本はカシ、シイの常緑照葉樹林となりました。
この地続きの時代に新石器・土器の技術を携えた人々の大陸からの渡来があり、これがわが国の文明の始まり(縄文時代)とされています。縄文時代の始まりの年代は未だ定説はありませんが、1万数千年前には世界最古の土器の一つが作られ、1万年ほど前の鹿児島(上野原)には既に大規模な集落が形成されていますから、今から1万年以上前であることは確かです。なお、この頃の日本の人口は2万人程だったと推定されていますが、温暖化が進むにつれて東・北日本が西日本を圧倒し、東日本を中心に日本の人口は急増したと言われます。これは、照葉樹林より落葉樹林、特に暖温帯落葉樹林の方が木の実の生産性が圧倒的に高いためだと考えられています。
この時代の特徴は採取、漁労、狩猟が基本であったことですが、簡単な農耕が始まり、半裁倍(施肥等をしない裁倍)から栽培へと移って行くと共に定住化が始まった(ムラの成立)と考えられています。農耕は焼き畑(これが「畑」という字の語源です)中心で、農耕用の道具も使われました。作物はクズ、クリ、雑穀(ヒエ、キビ、アワ、ソバなど)、ヒョウタン、ウリ、アサ等で、例えば、有名な青森県三内丸山遺跡は約5000年前を中心とする集落ですが、ここではクリを大量に栽培していました。また、オカボ(陸稲)による稲作も行われていました。稲の品種は"熱帯ジャポニカ"で5000〜6000年前にいわゆる「海上の道(南西諸島経由)」を通って中国から渡来したと考えられている、「縄文の稲」なのです。なお、この熱帯ジャポニカは栽培場所を選ばない水陸両用の稲だったと考えられています。
また、海進によって出来た潟湖周辺の集落では海洋交通も発達していました。6m大の大型丸木舟を使い、ヒスイ、黒曜石等の交易をしていたのです。土器の技術も伝播し、一説によるとポリネシアー帯やペルーヘも伝わったのではないかともいわれます。

 BC2500頃からは急速な寒冷化(現在より1〜2℃低い)が始まって海面が低下し(縄文海退といいます)、BC1000頃には現在程度の海面となって広大な湿地帯が発生しました。この寒冷化によって日本の人口は7万人程度まで大きく減少したと推測されています。これは人口の中心であった東日本で暖温帯落葉樹林が後退して人口扶養力が衰えたことが主な原因であると考えられています。

この頃(BC10c中頃)になると大陸の長江流域から水稲(温帯ジャポニカ)とその栽培技術がもたらされました。九州板付遺跡・菜畑遺跡、大阪牟礼遺跡、青森県砂沢遺跡・田舎館遺跡・垂柳遺跡等に水田の跡があり、岡山県南溝手遺跡からも籾の痕が見つかっています。なお、この頃の水田は湿地帯の自然の地形(窪み)を利用した不定形の小さなものだったようです。このようにして1万年以上続いた縄文時代は弥生時代へ移ります。



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