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我が国の環境破壊
 
 環境破壊と聞いて何を考えるでしょうか。身近な虫や鳥や魚、草花等の生き物が少なくなったこと、或いは昔と違うこと、夏が暑く冬は雪が少なくなったこと、大雨が増え、災害が増えたこと、山の緑が減ったこと、空気や水や土が汚れていること、騒音や乱雑な色彩、やたらに明るい光が溢れていること等、他にも色々あるでしょう。ここでは身近な環境破壊から地球規模の破壊まで、思いつくままに概観してみたいと思います。先ずはイントロダクションとして、我が国の環境破壊の歴史です。

 前回「破壊」とは修復が極めて困難な改変のことだといいましたが、つまり、環境は元に戻せないほどひどく変えられてしまっているのです。何故そういうことになってしまったのでしょうか。同じく前回「私達は西欧の価値観への転換と共に自然と対決するようになったのであり、したがって、今や西欧文明の真ん中にいる私達は、必然的に自然を、森林や水資源を破壊する」のだとしていますが、もちろんそれ以前にも自然破壊はありました。大陸から仏教が伝わった奈良時代から平安時代にかけて、大寺院の造営や13回にも及ぶという遷都が繰り返されて大量の材木が伐採され、また中世(鎌倉・室町)末期から近世にかけての戦国時代にも山林が荒廃して禿げ山(尽山)となり、表土が流出して河川の氾濫、山崩れなどの「自然災害」をもたらし、飢饉をつくりだしたといわれています。
 
 戦乱を別にすれば、この自然破壊は広い意味で都市化によるものだとも言えるでしょう。
シュメール等の古代文明は森林破壊によって滅亡したと考えられていますし、西ヨーロッパの森林は12世紀に始まった都市化によって無くなってしまいました。かの有名なドイツの黒い森( Schwaltz-Wald )は200年以上かけて再生された人工林なのです。しかし我が国では、江戸時代、17世紀の中頃から強い規制が加えられました。「諸国山川掟」が発布されて官民あげて植林が始まるのです。「治山治水」の思想が芽生えたとも言えるでしょう。国木田独歩の愛した武蔵野の雑木林も、これによって一面のススキが原から再生されたものです。
 
 弥生時代に始まる森と水を大切にする稲作文化は、いつの時代もその基調をなしてきました。特に300年近く平和が続いた江戸時代は米を中心とした農本主義でしたから、自然と共生する稲作文化が我が国の文化の骨格となったのです。しかし、明治を迎えるとこの考え方は180度の転換を見ました。いわゆる文明開化による欧米の文化の急速な流入と西欧の価値観への転換がそれです。これ以降の都市化、都市の発展の過程は殆ど全てが農業の駆逐による土地と人間と水の確保でしたし、水との乖離の歴史でもありました。治山治水はなおざりとなり、都市は農業と引き換えに拡大したのです。
 
 現代の都市に住む人々の生活は、水や土や緑、すなわち自然と直接関わり合うということが殆どありません。家庭の排水もゴミも外へ持ち出せば自動的に消えてなくなると考えています。何処かの誰かが何とかしているのであり、うまくいかなかったらその誰かが悪いというわけです。そして、その延長線上に今の我が国の環境破壊があるのです。
 
 次回からは地球規模の破壊を見ていきましょう。

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